絵本 FOU 佐藤春夫 谷中安規 挿画 Satoh Haruo & Taninaka Yasunori(Yanaka Anki)

版画家・谷中安規(1897-1946)と小説家・佐藤春夫(1892-1964)の共著とも言える絵本。谷中の木版画13葉(奥付含む)に合わせて書き下ろされた佐藤のメルヘンとが見事に組み合わされた珠玉の一冊。度々自身の著作の挿画に谷中を起用していた佐藤は彼の作品に敬意を持っていた。佐藤は谷中が仕事をしないと「このヤロー、銭だけせびっていつまで仕事をしない。早くかたづけろ」と言ったが、その反面「谷中は僕のカンナ屑を化して花びらにし、僕の小石を拾ってパンにした」と谷中を讃えている。

谷中安規(1897-1946)
1897年奈良県磯城群初瀬村(桜井市初瀬)に父福松、母とわの長男として生まれる。生家は真言宗豊山派総本山の長谷寺の門前町で「伊賀谷」の屋号を持つ庄屋であった。幼少期は父と京都の愛人の間に女児が生まれたり、父の事業の失敗、実母の死去、父が朝鮮へ渡るなど多感な時期を過ごす。1915年、真言宗豊山派の附属中学だった豊山中学に入学。在学中に短歌、美術等に関心を持ち、同窓の上田治之助、飯田正一らと回覧雑誌を出版した。1922年、谷中が25歳の時に、版画家・画家の永瀬義郎(1891-1978)の版画入門書『版画をつくる人へ』と出会ったことがきっかけとなり、彼は版画の道に突き進む。傘の骨を折って彫刻刀に改造し、見よう見まねで彫り始めたという。1924年に長谷川巳之吉(1893-1973)を知り、彼の紹介で日夏耿之介(1890-1971)、佐藤春夫(1892-1964)、与謝野晶子(1878-1942)とも知り合う。谷中は定住先を持たなかったので、同級生だった榎本憲阿の飛鳥山近くの本智院、永瀬義郎宅、高橋新吉(1901-1987)宅、また長谷川巳之吉が創業した第一書房や書店、そして木賃宿などを転々とした。食べることや着るものには無頓着で、腹が減ったら生米を食べ、ニンニクを齧り、着物はヨレヨレ、風呂はほとんど入らない生活だった。ふらりとやって来て、居候をし、気がついたらいなくなっている。小説家・内田百閒(1889-1971)はそんな彼のことを"風船画伯"と呼んだ。版画人生としての転機を迎えたのは1932年。版画雑誌『白と黒』を主宰していた料治熊太(1899-1982)に才能を見出だされ、『白と黒』、『版芸術』の同人となり、「影絵芝居」など代表作を発表した。また書籍の挿絵なども数多く手がけており、内田百閒、佐藤春夫、室生犀星(1889-1962)の書籍、短歌雑誌、新聞など1932年から戦中までの間に谷中は版画家として優れた作品を残している。谷中は無名の版画家ではあったが、川上澄生(1895-1972)や棟方志功(1903-1975)など先輩や同志からは高い評価を得ていた。料治も谷中について「彼は生まれながらの天才」と賛辞を送っている。戦後は焼け野原の東京に掘建小屋を作り、住み始める。焼け跡に蒔いた野菜類、特にカボチャがよく獲れたので「オカボチャさま」と言って大切にしていたという。彼の版画に対する情熱は終生絶える事はなかったが、1946年栄養失調のために足に浮腫ができ、次第に衰弱していく。同年9月9日、谷中と同じアパートに住んだことがある八坂喜代(旧姓佐瀬)が小屋で死んでいる彼を発見した。死因は餓死とのこと。

出版社 publisher:版画荘/Hanga So
刊行年 year:1936
ページ数 pages:
サイズ size:H160×W131mm
フォーマット format:ハードカバー/hardcover
言語 language:和文/Japanese
付属品 attachment:函/slip case
状態 condition:photo1/函補修跡あり。川上澄生らしき蔵印あり(真贋は不明)/slihgtly damaged.
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